「承知しました」の笑顔のうらに滲む心
僕は「承知しました」って軽々しく言っちゃいます。
そう言った時は確かに、
自分で心から納得してるのに後から涙が出てくる、
なんてことないですか?
今日は、自戒を込めた、そんなお話です。
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議論をする。
討論をする。
場にいる人々が提案をし合意形成をして、
どちらかの、または、折衷されたアイデアを結論とする。
そしてたいてい、
その結論とともに、最後に残されるのは
誰かの「承知しました」である。
本当に「承知」してるのか、とふと思った。
その合意形成に、そのアイデアに、そのプロセスに、
本当に、あなたは承知したのですか、と。
たしかに、アイデアの合理性を
「理解」しては いるかもしれない。
たしかに、アイデアを出した人の原体験を知り
「共感」しては いるかもしれない。
しかし、考えてみてほしい。
この「承知」のなかに
「あなた」はどこにいるのだろう?
客観的に「理解」と「共感」したつもりのあなたは
客観も客観がすぎて、
議論の土俵を降り
もはや客席に座ってしまってはいないか?
そんな「承知」の後に残るのは、
「わかってはいるけど、納得ができない」
そんな後味の悪さである。
土俵に取り残された「あなた」の心は、
踏みにじられていつのまにか、滲んでいる。